東西南北見ブ録

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Walk the Green Mile 〜2幕〜

舞台版グリーンマイル、2幕以降の考察レポです。

(1幕はこちら→ http://hatimituorange04.hatenablog.com/entry/2017/11/29/204209 )

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  • デラクロアの死

休憩を挟んで(舞台セットの転換を経て)再び動き始めたストーリー。ウォートンの不気味で不謹慎極まりない歌が聞こえ始め、独房のベッドですすり泣くコーフィー、歌うウォートン、そして執務机で項垂れるポールが照らし出されます。

1幕の記事でお話しした通り、今回の舞台では独房を照明で区切る演出をしていますが、ここで新たな照明演出が加わります。それは、独房の柵を表す格子模様です。興味深いことに、この格子模様はウォートンの独房にだけ映し出され、コーフィーは今までと同じ光の壁だけ。コーフィーが無実であることを強調しているかのように感じますね。

もう一つ注目していただきたいのは、電気椅子までの通路だったグリーンマイルがこのシーンでも照らし出されていたこと。グリーンマイル命の道でもあり、デラクロアの人生そのものを表していますが、コレの使い方がめちゃくちゃ上手い。

「彼は逝った。デラクロアは逝った」

というコーフィーのセリフで、このグリーンマイルは静かに消されます。原作でも触れられていた通り、デラクロアの魂がまだコールド・マウンテンに残っていたとするならば、彼が完全に旅立ったのは、コーフィーのこのセリフのタイミングだと分かります。

 

  • 脱走

さあ、話は進んで、コールド・マウンテンEブロックの所長ハルの奥さん(メリンダ)を救うため、ポールたち看守がコーフィーを外に連れ出すシーン。ウォートンをコーラに混ぜた薬で眠らせ、厄介者のパーシーはお仕置きを兼ねて懲罰房に閉じ込めるという練りこんだプランで決行されます。ウォートンにコーラを渡す際、わざと受け取れないように意地悪する時の加藤さんの笑顔は小山さんをイジる時のお顔でしたし、ディーンが考えたアリバイの設定に対して『洗濯…?』「仲良く…?」とブルータスと示し合わせて弄ったりしていて、とても楽しげでほっこりするシーンでした。

そして、外に出た一行は、用意されていたトラックに乗り込んでハルの家に向かいます。運転席に回ったブルータスに発車の合図を出す時のドアの叩き方が強めだったり、毛布のかけ方が雑だったりと、加藤シゲアキを随所に感じられました。笑

 

そんな移動シーンで唯一、コーフィーが興味を示したものがあります。カシオペア座です。カシオペア座は、北半球の大部分では地平線に沈む所が見られない星座です。これは神話によると、海に降りて休息することをポセイドンに許されていないからだそう。

コーフィーのセリフにも、「俺は疲れたんだ、ボス」「何も覚えていない。…覚えていなければ、夜眠れないこともない」とあり、ポールもまた、『お前が夜眠れずに泣いているのは知っている』と休まることのないコーフィーの様子に気付いています。これらから、休息を許されないカシオペア座人の痛みを常に感じ続けるコーフィーと重なります。

また、カシオペア座北極星を探すための目印として用いられることが多く、導きの星でもあります。エスは罪を引き受けることで人々を導きましたが、コーフィーもまた、人々の痛みを引き受けます。キリストの姿を重ね合わせる、なんともキリスト教のお話っぽい展開ですね。

このように、カシオペア座に焦点を当てることで、コーフィーの存在の暗示に繋がるのです。

 

  • 暗闇

コールド・マウンテンにやって来たコーフィーがまず最初に尋ねたのは、「寝る時、電気は付きますか…?」という質問でした。

「暗い所が少し怖いんです…」

そして、処刑の時も。

「お願いだ。マスクを被せないでくれ」

なぜここまでコーフィーは暗闇を怖がるのか?

その答えは、コーフィーの力によって目覚めたメリンダのセリフから読み取ることができます。

 「私、ずっと暗闇の中にいたの…。そして、私たちは暗闇のなかで会った…。あなたも私と同じように、暗闇の中にいた…」

 人々の痛みは暗闇の中に存在するようです。そして、他者の痛みを感じてしまうコーフィーもまた、暗闇の中にいる…。先ほどのカシオペア座のように、コーフィーが光となったおかげで人々は救われるのですが、コーフィー自身は光のない暗闇の中を歩いている状態なわけで。逃れることのできない暗闇の中にいるわけですから、怖がるのも当然ですよね。コーフィーの力は他者からしたら素晴らしいものですが、コーフィー本人からしたらとても辛いものなのだと分かります。

 

  • St.クリストフォロスのペンダント

 救ってくれたお礼に、とメリンダがコーフィーに贈った「旅人のお守り」であるペンダント。 クリストフォロスは “キリストの重み(痛み)を理解した” とされる人物です。

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ここでもキリストとコーフィーが重なりますね。 このペンダントは、コーフィーの処刑の際にポールへと渡されます。つまり、ポールはコーフィーの痛みを理解することとなった。ポール=クリストフォロスです。

 

映画では、コーフィーの処刑後ポールがこのペンダントをコーフィーにかけてあげます。しかし、舞台ではラストシーンまで持ち続ける。旅人はポールとなり、彼のグリーンマイルの旅は続いていくのです。

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パンフレットの写真の中でもポールが身につけていることから、このペンダントが重要な役割を果たしていることがわかると思います。 

 

  • ウォートンの死

さて、刑務所に戻った ポールたちは、何事もなかったかのように振る舞おうとしましたが…。コーフィーによる、パーシーとデラクロアに対する制裁が下されます(制裁という言葉が正しいのかわかりませんが)。会場中が重い空気に包まれるほど、恐ろしい事件をリアルに演じていたキャストさんが素晴らしかったです。あと、パーシーを起こす時に指パッチンをしていた加藤さん。原作も映画も指パッチンだったから合わせたのかな?めちゃくちゃ格好良かったです!

さぁ、そんな事件から数日後、ポールたち看守が話し合いを始めます。

まず議題に上がったのが、ウォートンの正体について。ここは人の名前や州の名前など聞き慣れない単語がたくさん出てくるシーンだったので、予備知識なしに舞台を観劇した場合、真相が分かりにくかったんじゃないかな、と思います。コーフィーの無実が明らかになるシーンだったので、もう少し丁寧に進んで欲しかったかな…。

 

  • 仕事とは

次に議題として上がったのが、コーフィーの処刑について。冤罪であるとわかった以上、彼を処刑することは果たして正しいことなのか?コーフィーの件を通して、自分たちのしていることは殺人だ、と言い出したディーン。そんな彼に対してポールが言った言葉がとても印象的でした。

『一つ確認しておきたいんだが。これが殺人だとするならば、殺している(執行している)のは誰だ?スイッチを押した人間か?スポンジを頭に乗せた人間か?ベルトを締めた人間か?命令書にサインした人間か?判決を下した裁判官か?……死刑囚を殺すのは、この国のすべての人間だ』

これは舞台版で新たに足されたセリフで、言うなれば、この舞台の心臓部分です。そしてこれを聞いたブルータスは「俺は神に、なぜ殺した?と聞かれたら、迷わず、仕事だからと答えるぞ」と発言します。この“仕事だから”と割り切る考え方は、他の国では通用しませんが、日本人には一番響く考え方といえるでしょう。日本で行われた舞台ならではのシナリオだと思いました。

他にも、原作・映画と舞台で異なるシーンがあります。例えば、コーフィーの処刑のシーン。まず映画では、ディーンが堪えきれず涙を流し、それに気付いたポールは「涙を見せるな」と叱ります。立会人のいる場ではコーフィーは悪人であり、同情してはいけない対象。看守にも感情はあるものの、それを見せることのできない立場を表していました。

対する舞台では、こんな会話が繰り広げられています。

ディーン「じゃあ、、、俺たちに感情はないのか?」

ポール『ある!俺たちに感情はある!!』

立会人がいない舞台での看守の人間性を、セリフで印象付けたのです。

 

そしてここでもう一つ。原作・映画では、コーフィーは処刑台に向かう時、立会人たちから強い敵意を感じ、怯えます。そんなコーフィーの様子に気付いたポールたち看守は、「俺たちを感じろ」「俺たちはお前を憎んじゃいない」と声をかけます。わずかな時間・普通ではない関わりだけれども、彼らの間に確かな絆が存在することを強く感じます。立会人のいない舞台でこれを表現するのは難しいのですが、とても重要なシーンがカットされてしまったように感じました。

 

  • 服装について

ポールたち看守が、コーフィーについて話し合っているシーンに話を戻します。ここのシーンでは、舞台中唯一、ポールが制服のジャケットを脱いでいる場面です。演出の観点で、は、自分の身体を隠すものであると同時に、そのを隠すもの、と解釈されることが多いです。つまり、ジャケットを脱いで語られた看守同士の会話は、彼らのホンネなのです。

そして、次のシーン:所長とコーフィーの処刑について話すシーンで、ポールはジャケットを着始めます。話しながら着ることで、コーフィーの処刑に対する心を隠す、つまり、仕事と割り切ることを上手く表現しています。

徹底しているなぁ、と思ったのは、

「しかし…、メリンダを治した人物と、あのような惨い殺戮を犯した人物が同じ1人の人間だなんて…。私にはどうしてもそうは思えない…。君はどうかね?」

と所長がコーフィーの二面性について訊ねるシーン。

ここでポールは、手にしていた警官帽を被り、「…分かりません」と答えます。

コーフィーに罪はなく、真犯人がウォートンであると知っているポールは、警官帽を被り仕事服を完成させる(着終える)ことで、自身の心を隠し、『仕事だから』と割り切ったのです。

 

  • 最後の晩餐

さあ、いよいよコーフィーの処刑前夜になってしまいました。

『何か食べたいものの希望はあるか?ある程度のものは何だって用意してやる。お前が望めば、ビールだって飲むことができる。…まぁ、コップ一杯だけだがな…』

ベッドに腰掛け、ポールが優しく話しかけます。

「特別なものはない…。ミートローフとか…」

『そうか。じゃあミートローフを用意しよう。グレイビーソースをたっぷりかけてな。マッシュポテトもつけてやる。他にはあるか?』

「じゃあ…、オクラとか…」

『よし、分かった。オクラも必ず用意しよう』

ミートローフは、舞台であるアメリカ南部で食べられるごく普通の家庭料理です。では、オクラはどんな意味を持つのか?

 オクラもアメリカ南部でよく使われる食材ですが、この作品内ではそれ以上に、とても重要な意味を持っていると考えられます。

それは、コーヒーと似ていること。

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私たちが普段目にするコーヒー豆を思い浮かべると「?」となると思いますが、私たちの知っているコーヒーとは、このような実から取り出した種の部分です。

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そして、これがオクラの種子。f:id:hatimituorange04:20171211171431j:image

まぁ確かに、似てるか似てないかで言われたら似てるけど…、と思われた方も多いはず😅

しかし、かつてイギリスやフランスでは、実際にオクラをコーヒーの代用品として栽培していたそうで。大恐慌時代、コーヒーが贅沢品となったため、オクラの種子でコーヒーを作っていた、なんてことなのでしょうね…。

ではなぜ、オクラがコーヒーに似ていることがそんなに大事なのか?

みなさん、これより前のどこかでコーヒーが出てきたのですが、覚えていますか?

「ジョン・コーフィーです。飲み物のコーヒーに似ていますが、綴りは違います」

 そう。物語の導入部で、コーフィーが名乗る際に出てきました。

 コーヒーに似ていて、綴りの違うコーフィー。

コーヒーに似ている、代用品のオクラ。

つまり、ここでのオクラはコーフィー自身の暗示です。

イエス・キリストの処刑前夜を描いたとされるレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はあまりにも有名な絵画です。この絵の中で、食卓に並べられているのはパンとワイン、つまり、キリストの血肉であるとされています。

コーフィーの「最後の晩餐」は、自身を表すオクラ。

ここでもまた、キリストとコーフィーが重ね合わせられているのです。

 

  • コーフィーの処刑

 こんな見出しをつけましたが、加藤さんも仰っていた通り、この作品に正解を求めることをしてはいけないと私は思っています。ですから、この作品の核であるこのシーンに関しては、観客一人一人の解釈で考えて欲しいなぁ、と思うので、ここでの演出的考察は控えさせていただきます。

一つだけ、私の感想を述べるとするならば、ポールたち看守が涙ぐんでいたのがとても印象的でした。

先にも書いた通り、原作・映画では立会人の手前、感情を見せることはタブーでした。そんな彼らが、涙を流して執行する。看守たちの人間らしさが、とても際立ったシーンだったと思います。

 

舞台のラストシーン。グリーンマイルに立ったポールの独白が始まります。

このラストシーンは、原作・映画と大きく異なります。

原作・映画では、コールド・マウンテン跡に建てられた老人ホームにて、100歳を超えてもなおグリーンマイル(物理的な、廊下としてのグリーンマイル)に立ち続けるポールが映し出されます。また、ミスター・ジングルスもコーフィーから(生命力・寿命)を受け取り、1人と1匹が生き続けていきます(原作ではミスター・ジングルスは死を迎えますが)。

対して舞台では、ポールとコーフィーが語り合う形で、ここで映し出されるグリーンマイルは、内面的な、人生の長さ・寿命を表すグリーンマイルです。

2幕の初めに「グリーンマイルは命の道」と書きましたが、このグリーンマイルポールの命の道です。

ここでのグリーンマイルの照明は、ポールが立っている上手からコーフィーの立つ下手の舞台袖まで伸ばされており、終わりを見せないことでその先も続いていくように見えます。コーフィーが去っていく舞台袖の先が死後の世界だとしたら、ポールにはまだまだ命が残されていることが分かりますね。

『お前は俺に力をくれた。…だが俺は確かに、少しずつ歳をとっている』(ニュアンス)

このセリフで、ポールはコーフィーに2、3歩近寄ります。グリーンマイルを進むことで、経過した歳月を表したのです。

細かいところまで徹底していて天才じゃないですか!?👏

また、コーフィーと話しながら、ポールはペンダントを取り出します。ペンダントは旅人のお守り。グリーンマイルという長い道を、ポールが旅していることが強調されています。 

『それにしても このグリーンマイルはあまりにも長すぎる』

 

  • 番外編

舞台はグリーンマイルでの独白で物語が終了しますが、原作ではこの後の未来について書かれているので少し紹介したいと思います。

先ほども述べた通り、コールド・マウンテンは後に老人ホームとなり、ポールは100歳を超えてもなおグリーンマイルに立ち続けます。

ポールは、コーフィーが最後の死刑囚だったと言っただけあって、その後、一度も死刑執行をしていません。州で電気椅子による死刑の制度が廃止されたこともありますが、コーフィーとの出会いによって、死刑について考えさせられたからだと考えられます。

そんなポールですが、原作中一度だけ、コーフィーの力を求めたシーンがあります。

それは、最愛の妻・ジャニスが事故で亡くなった時のこと。

『ジョン!ジョン・コーフィー!いったいどこにいるんだ、でかぶつ?』『ムーアズの妻を助けたおまえが、なぜ私の妻を助けなかった?なぜジャニスを助けなかった?なんでわたしのジャニスを助けなかったんだ?

コーフィーの力が彼にとって苦であると知っているはずのポールの、悲痛な叫び。あまりにも人間らしい叫びに、涙が止まりませんでした。

そして、このシーンでポールは、こんなことを思います。

そう、コーフィーはわたしをも助けてくれたのだ。それから長い歳月が流れたある日、…...わたしは恐るべき真実を知った___救済と呪いのあいだには、本質的なちがいなどなにひとつありはしない、と。

1932年の11月18日に簡易寝台で横ならびにすわっていたあのとき、わたしに流れこんできたものは、救済と呪いのどちらかだったのだろう。コーフィーから流れだし、わたしのなかに流れこんできたもの。……1932年に、ジョン・コーフィーはわたしに生命を植えつけたのだ。わたしに生命という電気を流しこんだ、といってもいい。

コーフィーがポールに与えた、救済と呪い。

それは、コーフィーの処刑の際に、ポールが自ら考えていたものでした。

『この男にひどい仕打ちをしようとしているし、その一方でわたしたちは、この男に救いをあたえることにもなる』

ここまでコーフィーとポールを対比させ、重なるように描いているのは、やはりスティーブン・キングの力量のたまものでしょうか。緻密に構成され尽くしているこのような作品は、他にはないと言っても過言ではないでしょう。

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ここまで長々と話してきましたが、この他にも、たくさんの演出・こだわりが隠されています。気になった方は是非、舞台だけではなく、小説、映画なども見ていただけると嬉しいです。

最後に、このような作品に出会わせてくれた加藤シゲアキさん、キャストの皆さん、瀬戸山さんをはじめとするスタッフの皆さんに感謝申し上げます。ありがとうございました!

 

長々と読んでくださった読者のみなさん、ありがとうございます。

また次回、お会いしましょう!

バイバイ👋

 

それにしても このブログはあまりにも長すぎる。